北の縄文講座

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縄文へのいざない(5)

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

家はなぜ焼けたのか*アイヌ民族の葬送儀礼

二〇〇一年九月、青森県の三内丸山遺跡の公園内に復元されていた竪穴住居一棟が、放火されて丸焼けになった。たまたま数日後にここを訪れる機会があったが、私の興味は、有名な「六本柱の望楼」やマンションのような「大型住居」ではなく、不謹慎ながらこの焼けた住居にあった。

私が縄文時代の火事に興味を持ったのは二十五年ほど前だ。立て続けに火災に遭った縄文の住居を発掘したからである。

最初は道南の遺跡で掘ったが、忙しい調査でほとんど火事に注意が向かなかった。次は千歳市の空港建設用地の調査だった。いきなり四軒の火災住居にあたったものだから、いささか興奮した覚えがある。

たくさんの炭化材が出てきたので、上屋の構造がどうなっているのか気にはなったが、火災の原因にまでは思いが及ばなかった。

千歳1遺跡(登別市)の焼けた竪穴住居跡。卵形の家の床には焼けて炭となった柱材や屋根材が散乱していた

千歳1遺跡(登別市)の焼けた竪穴住居跡。卵形の家の床には焼けて炭となった柱材や屋根材が散乱していた

*大半が縄文中期

その後も、なぜか火災住居に遭遇した。そして、いよいよ登別の「千歳1遺跡」である。ほぼ同時代の二十三軒のうち、三軒が焼けている縄文集落を目の当たりにし、さすがに注意が喚起された。何かあるなと。

一つは、これまで遭遇した火災住居のほとんどが、この「千歳1遺跡」と同じように縄文時代中期(四千年前)かそれより後の時代であること。思い出すと、あれもこれもそうだった。それから、地域的には圧倒的に道南に偏っていることだ。

そこで、北海道でこれまでに発掘された縄文の住居を片っ端から調べてみた。予想通り、あるわあるわ。しかも、時期的にはやはり縄文中期だ。地域的な偏りもドンぴしゃ、だった。

縄文中期というのは、全国的にも一番ムラが栄えた時期とされており、当然住居の数も多いであろうから、割合からいっても火事も多いはず。そう思った。しかし、面白いことにそうではなかった。

前期とか早期という、もっと前の時期だって、中期に負けないくらいの住居が発掘されていたのだ。なのに火事はないのである。不思議だ。なぜ中期だけ火事が多かったのだろうか? ここで初めて、縄文の火事には何か「わけ」があるなと感じたのである。

*死者への思いやり

そして、いろいろ調べてゆくうちにある事実に行き当たった。それはアイヌ民族の「チセ・ウフイカ」だった。つまり、彼らの伝統的な葬送儀礼である「死者のための家送り」だった。

アイヌ民族は、古くから死者がでた家を焼き払ってきた。それは、死者を忌み嫌ったのではなく、死者があの世で住む家がなければ不便との発想からだ。いわゆる「もの送り」儀礼なのである。おそらく縄文人も、死者があの世で暮らせるようにと、竪穴住居を送ったに違いない。

つまり、縄文の火災住居の多くは、不注意や予期せぬ落雷などによる火事ではなく、死者への思いやりとしてわざと火を放ったための火災だったのではないか。縄文人の高い精神性には驚かされるばかりだ。

1799年(寛政11年)、幕府の絵師村上島之丞は「蝦夷(えぞ)島奇観」という風俗画集に、アイヌ民族の「家送り」の様子を描いた

1799年(寛政11年)、幕府の絵師村上島之丞は「蝦夷(えぞ)島奇観」という風俗画集に、アイヌ民族の「家送り」の様子を描いた

1959年(昭和34年)、当時の日高管内静内町(現新ひだか町)で行われた「カズ・オマンデ(仮小屋送り)」の様子。「家送り」の習俗は、明治以降は仮に建てた小屋に火を放つようになり、昭和30年代まで続いた(故藤本英夫氏撮影)

1959年(昭和34年)、当時の日高管内静内町(現新ひだか町)で行われた「カズ・オマンデ(仮小屋送り)」の様子。「家送り」の習俗は、明治以降は仮に建てた小屋に火を放つようになり、昭和30年代まで続いた(故藤本英夫氏撮影)

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