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気候変動とアイヌ文化の成立(4)

投稿者:(財)北海道埋蔵文化財センター 常務理事 畑 宏明

擦文文化期の終わり、つまり北海道において土器文化の伝統が途絶えたのは近年の研究では13世紀ころとみられている。一般的な時代区分でいえば、この後を「アイヌ文化期」として表記することが多い。ただし、最初に書いたように「アイヌ」とは民族名である。民族の定義はとても難しいが、大まかには血縁関係、地域、言語や宗教など文化を共有する共同体ということができそうだが、細かい点ではいろいろな見解があり決定版はないが、最近では集団に対する個人の帰属意識によるという主観が究極の民族意識であるともいわれる。ところが、考古学では人の意識をそのまま把握することはできず、意識の産物としてのさまざまな物質的な形をとらえて文化を認識するのである。だから、考古学では弥生土器の後にも土師器が使われているにもかかわらず、大規模な墓の出現を基準にして「古墳時代」を設定しているのは、その背景に政治形態としての国家とその権力の成立を見とおしているのであり、古墳はそれを象徴する物質的な形として扱っているのでである。

ところが、北海道では擦文文化期にもその後も在来の人たちによる政治形態としての統治機構は成立せず、それをつくりあげたのは本州から渡ってきた人たちであった。その過程で擦文文化期の高地性防御集落や和人による館、そしてアイヌの人びとによるチャシの構築が行われ、和人とアイヌの間ではいくつかの戦闘があったことはご承知のとおりである。その結果として、17世紀に松前氏は豊臣秀吉から朱印状を、徳川家康から黒印状をうけ蝦夷地の大名となるが、現在に連なるアイヌの人々は、この過程のどこかで「アイヌ」としての民族意識を共有しはじめたと考えられるのであるが、その時期については定かではないのである。

また、時代により区域は少しずつ拡大しているが、幕藩体制の大名となった松前氏が直接に統治したのは渡島半島の一部にすぎず、その他の大部分の場所は、商人に漁場などの経営を請け負わせていた。それはアイヌの人びとの生活にとって過酷な面が多かったといわれるが、ささやかな反面の効果として、この制度では和人の定住者が急激に増加することはなく、このことはアイヌの人びとが民族意識を持続するうえで多少なりとも幸いしたということができるだろう。なお、このような歴史が現在のアイヌ民族問題や北方領土問題にも影を落としているが、このことは主たる論点ではないのでここでは深入りしない。

つまり、13世紀ころから明治維新による開拓使設置までの間は、渡島半島の一部と北海道のその他の地域および千島・樺太(サハリン)は政治的にも文化的にもなかなかひと括りとはいかないのである。宇田川洋さんは、擦文土器の後に使われた「内耳土器」や大形遺構の「館・チャシ」など用いて時代区分することを提唱したこともあるが、今のところ定着しているとはいえない。私は、本州の時代区分にならって「中世」や「近世」を用いることがあるが、これとても全道的に使うのははばかられる。そのようなわけで、民族名を時代区分に用いるのはあまり適当とは言えないまでも、今のところそれに代わるよい区分も見あたらないことから大方が「アイヌ文化期」を採用しているのであろう。考古学を学ぶものとして、今後の課題のひとつだと思っている。

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