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気候変動とアイヌ文化の成立(3)

投稿者:(財)北海道埋蔵文化財センター 常務理事 畑 宏明

縄文の次の「弥生時代」は、青銅や鉄などの金属器を使いはじめ、水稲農耕を行っていることから縄文より新しく、「金石併用時代」として位置づけられた。しかし、その時代名はやはり土器の名に由来する。ここまでは土器の名称を使った時代区分である。

その次の「古墳時代」は、土器でなく首長の墓である古墳により区分される。魏志倭人伝に、卑弥呼の死後に大きな塚がつくられた、という記事があることからこれを古墳の始まりと見る向きが多い。以後、西日本各地で首長の権威を示すため古墳がつくられるようになった。代表的なのは前方後円墳である。この時代は「土師器」や「須恵器」などの焼き物を使っているが、視覚的に目立つ古墳を時代名称として使っている。また、これらの古墳を造営するためには政治権力としての地方豪族とそれらを統率する大和朝廷、すなわち高度な政治形態と国家の形成が深く関係しているのは言うまでもない。
この「古墳時代」までは、考古学的な時代区分が一般的に使われているが、日本史の教科書ではこの時代のことを「大和時代」とか「飛鳥時代」と表記することが多い。これは古代王朝の所在地による呼び方であり、これが奈良・平安・鎌倉などその時々の権力が所在した土地を用いた時代名称へと引き継がれていくのである。では地域を北海道に限ってみたとき、その姿はどうであろうか?

北海道と本州以南の文化が大きく異なる流れをたどるようになったのは弥生時代以降のことである。米、特に水稲を栽培し、鏡や刀などの金属器を重用し、国つくりへとつながる社会の組織化などは大陸文化の影響を抜きには考えられず、弥生時代には相当数の人びとが大陸から日本列島へ渡来したともいわれている。しかし、西日本で始まった弥生文化の産業・経済・社会制度が東日本に広まるためにはそれなりの時間を必要としたようである。特に食糧資源の豊富な落葉広葉樹林帯の北部に位置する北海道では、碧玉製の管玉や貝製の装飾品など弥生文化の文物は取り入れながらも、古墳時代にいたるまで縄文の付いた土器が作られ石器が多用されるなど縄文文化的伝統が根強く続いていた。北海道では、この時代を縄文に続く時代という意味で、「続縄文時代」と呼んでいる。これも、土器名称による時代区分ということができる。

そして、大和(飛鳥)・奈良時代には北海道にも本州の土師器文化の影響が及び、最後の土器文化である「擦文文化期」へと移行する。擦文文化は、アワやキビなどの雑穀農耕を行い、それらを調理するための竈(かまど)をもつ方形の竪穴住居を設えるなど、土師器文化の影響が強い。しかし、土器の上半部には本州の土師器にはみられない刻線模様がつけられている。たかが模様の有無と思われるかもしれないが、これはデザインの領域を越えた文化的には重要な違いである。本州の土器が、弥生時代以降に徐々に模様を失っていくのに対して、北海道の土器はこの伝統を維持し続けている。本州の影響を受けながらも北海道の文化的主体性を主張しているのである。

一方、北海道のオホーツク海の沿岸には、続縄文時代の末から擦文文化期の前半にかけて、サハリン方面を原郷とする渡来人たちが移住し、大陸系の異文化であるオホーツク文化をもたらした。近年オホーツク文化の広がりは渡島沖の日本海にある奥尻島や千歳でも確認されはじめているが、いずれも散発的であり全道一円をカバーしていたわけではないようである。したがって、道内では地域的な限定があるという理由だと思われるが、「オホーツク文化」は文化名としては用いられても「オホーツク文化時代」のように時代名として使われることはない。実は、このことが「擦文文化期」という時代名称を使う一因となっているのである。いろいろな出版物をご覧いただくとわかるが「擦文時代」という呼び方は皆無とはいわないまでもきわめて少ないことに気づくはずである。これはオホーツク文化との関係の中で出てきた呼称であることは明らかである。
オホーツク文化や擦文文化の人びとが、自家製の土器を使わなくなりほぼ同時に竪穴住居に住まなくなったとき、北海道においても縄文以来1万年にわたって続いた土器文化の伝統は途絶えるのである。それは13世紀ころのこととみられている。

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