北の縄文講座

「縄文」を知的観光資源に

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

縄文文化が「ブーム」と呼ばれるほどに騒がれて久しい。火付け役はあの青森県の三内丸山遺跡だった。
新たな発見が連日マスコミに取りあげられ、「教科書を書き換える」の文字が幾度となく新聞紙面を飾った。これをきっかけに縄文への関心が全国的に高まり、気が付けば縄文ブームになっていた。

それから18年。三内丸山遺跡は国の特別史跡となり、文化庁が世界文化遺産の国内暫定リストに載せた「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の15カ所の縄文遺跡の一つとなった。北海道からは伊達市の北黄金貝塚など4カ所の遺跡も選ばれた。
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縄文へのいざない(10)

遺跡の文化的価値*「自然との共生」を体現

「えっ、縄文遺跡が世界遺産に?」「なぜ?」「それほど価値があるの?」。新聞記事やテレビ報道を見た多くの人たちは、率直にそう思ったに違いない。昨年末、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産の国内候補に推薦された時のことである。

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縄文へのいざない(9)

畏敬と感謝*動物を儀式の対象に

自然に対する「感謝」と「畏敬(いけい)」は、縄文世界観の中核をなす概念である。
狩猟社会にあっては、自然との共存を旨とするが、自然は生きる糧であるから、その命を奪わなければならない。しかし、それは恐ろしいことであり、それに許しを請うためには「畏敬」の念を持ち、礼節を尽くし、自然の霊に「感謝」をささげるしかなかったのである。この矛盾律を払拭(ふっしょく)するのが、何を隠そう儀式や呪術(じゅじゅつ)だったのだろう。
縄文人が特に畏敬の念を持って儀式や呪術の対象とした動物には、それなりに気持ちを表現した節がある。その動物の骨や牙を加工して身につけたり、土器や道具のデザインに取り込んだりしたのだ。
こう考えることで、もっとも畏敬すべき存在として浮かび上がってくるのが、イノシシ、ヘビ(マムシ)そしてサメなのである。意外なことにクマやオオカミ、クジラなど、現代の私たちが恐ろしいと思う動物がリストに上らない。

十腰内遺跡(青森県弘前市)のイノシシ型土製品。高さ9センチ。イノシシの特徴をとらえきっていて見事だ。同じ時代の土器模様が描かれるなど、単なる置物ではないと思わせる(弘前市立博物館提供)

十腰内遺跡(青森県弘前市)のイノシシ型土製品。高さ9センチ。イノシシの特徴をとらえきっていて見事だ。同じ時代の土器模様が描かれるなど、単なる置物ではないと思わせる(弘前市立博物館提供)

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縄文へのいざない(8)

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

土器の世界観*生命「再生」への願い 

戦後の考古学の大事件と言えば、わが国最初の旧石器が群馬県岩宿遺跡で発見されたことがまず第一に挙げられる。納豆行商の道すがら見つけた相沢忠洋の快挙だった。
それ以後、多くの考古学者がさらに古い石器を求めて発掘を重ね、次々に記録が更新された。しかし、結局はそのほとんどがあの「捏造(ねつぞう)石器」だったわけで、実にむなしい年月だった。

 

津金御所前遺跡(山梨県北杜市)の出産を彷彿(ほうふつ)とさせるモチーフの描かれた4000年前の土器。類例は関東甲信越を中心に広がっている(北杜市教育委員会提供)

津金御所前遺跡(山梨県北杜市)の出産を彷彿(ほうふつ)とさせるモチーフの描かれた4000年前の土器。類例は関東甲信越を中心に広がっている(北杜市教育委員会提供)

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縄文へのいざない(7)

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

水場遺構*「作業場」に供養の精神

水場(みずば)と呼ばれる遺跡が登場したのはごく最近のことだ。それまで水につかった遺跡は、低湿地遺跡などと呼んできた。木製の道具が腐らずに出てくるので貴重だった。

一九八二年、埼玉県の赤山陣屋跡遺跡で驚くべきものが発見された。何と、トチの実を水で晒(さら)し、アクを抜くための木組みが出てきたのである。四角に組まれた立派な施設だ。底には板も敷いてあり、近くには、これ見よがしに大量のトチの実の皮が塚をなしていた。

以後こうした遺跡の発見が全国で相次ぎ水場遺構の名が一般化した。最近では、川岸を造成した水くみ場や洗い場なども水場遺構として報告されている。栃木県の寺野東遺跡が有名だし、伊達の北黄金貝塚からも同様の施設が見つかった。

また、三内丸山遺跡では、板やくいで岸辺を護岸した例や、湿地内を歩きやすくするための木道まであるという。さらに東京都の下宅部遺跡では、建築部材が多数出たことから貯木場の可能性がささやかれた。何とも信じられないような話だ。

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縄文へのいざない(6)

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

シャーマンの役割*人間と自然の関係調整

シャーマンという呼び名は、考古学用語として使われることはほとんどない。しかし、その割には、翡翠(ひすい)のペンダントや南海産の貝の腕輪など、儀式の道具を一体誰が使ったのかと言った時、必ずと言って良いほど話題にのぼる。

そもそもシャーマンというのは、シベリアや中央アジアの遊牧民やアメリカ大陸の先住民、アジアの農耕民らにみられる独特の宗教的な職能者だ。自らを恍惚(こうこつ)、つまりトランスという、われを忘れた状態に導き、神や精霊や死者の霊と直接に交信して、その力を借りて予言や病気の治療を行うのだという。

日本では、巫女(みこ)や巫者(ふしゃ)と呼ぶが、ただし神社のアルバイトの巫女さんはいただけない。下北恐山の「いたこ」や関東の「市古(いちこ)」、奄美の「ゆた」のように霊魂を呼び寄せてその意志を伝え告げる巫女は本物である。シャーマンの多くは女性だが男もいる。日本のシャーマンの多くは女性だ。

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縄文へのいざない(5)

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

家はなぜ焼けたのか*アイヌ民族の葬送儀礼

二〇〇一年九月、青森県の三内丸山遺跡の公園内に復元されていた竪穴住居一棟が、放火されて丸焼けになった。たまたま数日後にここを訪れる機会があったが、私の興味は、有名な「六本柱の望楼」やマンションのような「大型住居」ではなく、不謹慎ながらこの焼けた住居にあった。

私が縄文時代の火事に興味を持ったのは二十五年ほど前だ。立て続けに火災に遭った縄文の住居を発掘したからである。

最初は道南の遺跡で掘ったが、忙しい調査でほとんど火事に注意が向かなかった。次は千歳市の空港建設用地の調査だった。いきなり四軒の火災住居にあたったものだから、いささか興奮した覚えがある。

たくさんの炭化材が出てきたので、上屋の構造がどうなっているのか気にはなったが、火災の原因にまでは思いが及ばなかった。

千歳1遺跡(登別市)の焼けた竪穴住居跡。卵形の家の床には焼けて炭となった柱材や屋根材が散乱していた

千歳1遺跡(登別市)の焼けた竪穴住居跡。卵形の家の床には焼けて炭となった柱材や屋根材が散乱していた

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縄文へのいざない(4)

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

第2の道具*新たな命 土偶に願う

考古学者の小林達雄は、縄文人の信念や世界観を物語る「第二の道具」という考えを編み出した。その形を見ただけでは、用途のさっぱりわからない道具のことで、石棒や土偶がその代表である。
例えばヤジリで飛ぶ鳥を落とすためには、道具の性能や狩人の技術だけでは如何(いかん)ともし難い場合があり、時として神様にお願いすることがある。それが祈りや信念、呪術(じゅじゅつ)であり、その際に使われる道具が第二の道具というわけだ。
第二の道具のチャンピオンともいえるのが土偶である。縄文文化の象徴的存在だ。縄文文化の始まりとともに出現し、その終わりとともに姿を消した。分布は全国に及ぶが、岩手県が約二千二百点で断トツに多く、山梨県と長野県がこれに次ぐ。総じて東日本に多く西に行くほど数が減る。このことは、縄文文化の濃淡とも符合するからおもしろい。

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縄文へのいざない(3)

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

「円」が好きな理由*生活と自然 等距離に

縄文人の円(まる)好きは有名である。とにかく何でも円くしてしまう。ストーン・サークルはもちろん、盛土遺構、貝塚、お墓、そして例は少ないが、大きな溝を巡らした「環壕(かんごう)」と呼ばれる不思議な遺跡まで。さらには竪穴住居の平面形や貯蔵用の穴、お墓にいたるまで、何でも円くする。なぜなんだろう? きっと何かしらわけがあるはずである。

先史文化の代名詞のように言われるストーン・サークルは読んで字の如しで、石を円く並べた場所だ。もちろん日本だけに限らない。あの有名なイギリスの「ストーン・ヘンジ」もこの類である。

このストーン・サークル、縄文時代には全国各地でつくられた。特に東北・北海道に多く、今回の世界遺産候補の目玉だ。ノミネートされた十五遺跡のうち、五カ所にこれがある。中でも、秋田県の大湯環状列石は、直径四十メートル以上もある立派なサークルが二つ。国の特別史跡第一号だ。

史跡キウス周堤墓群(千歳市)は3千年前の巨大な墓だ。最大のものは直径75メートルの円形に人工の土手が巡る(道埋蔵文化財センター提供)

史跡キウス周堤墓群(千歳市)は3千年前の巨大な墓だ。最大のものは直径75メートルの円形に人工の土手が巡る(道埋蔵文化財センター提供)

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縄文へのいざない(2)

大島直行・伊達市噴火湾文化研究所長

ごみ捨て場?*貝塚に「物送り」の精神

貝塚が単なる「ごみ捨て場」ではないと最初に主張したのは、北海道大学の河野広道博士だ。一九三五年(昭和十年)、人類学の雑誌に「貝塚人骨とアイヌのイオマンテ」と題してそのことを書いた。

博士はもともと昆虫学の専門家で、雪虫と呼ばれるトドノネオオワタムシの不思議な生態を明らかにしたことでも有名である。学生時代から優れた業績をあげ、弱冠二十七歳で農学博士となった。

他方、博士は北海道史の大家であった父親常吉の影響もあって、アイヌ民族学や北方考古学にも数多くの業績を残した。

そうした業績の中で何と言っても特筆されるのは、貝塚に対する解釈であろう。

美沢4遺跡(苫小牧市)の5千年前の貝塚。ある場所を決めたら数百年もの間、そこに貝や魚の骨を整然と積み重ねる。決してごみ捨て場ではない(道埋蔵文化財センター提供)

美沢4遺跡(苫小牧市)の5千年前の貝塚。ある場所を決めたら数百年もの間、そこに貝や魚の骨を整然と積み重ねる。決してごみ捨て場ではない(道埋蔵文化財センター提供)

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